ユダヤ遺産博物館で「命のビザ」発給の杉原千畝さんの息子、伸生さんのトークイベント

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ユダヤ遺産博物館(museum of Jewish Heritage)で22日、第二次世界大戦で約6,000人のユダヤ人を救ったリトアニア・カウナス日本領事館の外交官、杉原千畝さんの四男、杉原伸生さんを招いたイベントが開催された。

イベントに先駆けた懇親会には、千畝さんのビザの発給により生き延びた170名の生存者や、子孫らが参加。シカゴやボストンなど遠方から駆け付けた人々もいた。千畝さんが両親や親族らに発行した通過査証(ビザ)の現物や、家族写真、千畝さんの著書を持参した人々が、息子の伸生さんを囲み、感謝を述べたり、共に写真撮影したりした。

杉原千畝さんの息子、杉原伸生さん©mashupNY
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その後のイベントでは、元NBC「Today」のホストで、日系アメリカ人ジャーナリスト、アン・カリー(Ann Curry)氏が司会を務めた。

伸生さんのトークイベントは、300名以上がキャンセル待ちとなるなど、開催前から話題となった。カリーさんが、生存者やその家族の人に起立を求めると、大半の人がその場で立ち上がり、大きな拍手がわき起こった。

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伸生さんは、千畝さんに関する本や、ドキュメンタリー、映画が制作されているが、半分は本当で半分は虚構であると述べ、次の世代のため、正しい歴史を伝えたいと冒頭で述べた。

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ビザの発給については、伸生さん自身も19歳になるまで、千畝さんが政府の許可を得ず、ビザを発給していた事実を知らなかったという。子供の頃、ポーランド人にビザを発給したため、外務省の職を解かれたと聞かされていたが、その詳しい理由については知らなかった。

1968年に、モスクワで勤務していた千畝さんが日本に帰国した際、ニシュリさんが連絡をしてきたという。ニシュリさんは、千畝さんがリトアニアで発給したビザを持つ生存者の一人だということが判明した。東京のイスラエル大使館で面談に同行した伸生さんは、初めて千畝さんのリトアニアの外交官時代の話を知った。

命のビザを政府の許可なく発給

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第二次世界大戦中の1940年、リトアニアのカウナス日本領事館開を開設した千畝さんは、他の職員が退去するなか、一人同地に留まった。
ユダヤ人への通過ビザ発給を要求する電報を、日本政府に3回送ったが、全て発給の要件が整っていないないという回答だった。出国を求めるほとんどのユダヤ人が、日本行きの船の乗車券を購入するためのチケット代や、短期の滞在費を持ち合わせていないという理由だった。
同年8月、政府に発給を引き続き要求する一方で、政府との連絡を停止した。ユダヤ人を通過させるため、ソビエトの政府職人らと交渉し、8月末の滞在期限までビザを発給し続けたという。

当初ビザは手書きだったが、その後スタンプに切り替えられた。千畝さんは、個人を尊重し、渡航先やバックグラウンドなど全員への面接を行った上に、リストの作成、発給作業など1日に18時間を費やしていたという。
最終的には2100以上のビザを発給した。ビザは家族単位で発給されたため、実際に日本を通過して出国したユダヤ人はさらに多い。

初期に発給された手書きのビザ©mashupNY

司会者のカリーさんが、日本政府の命令に背き、なぜ自らリスクを追ってビザを発給したと思うかと尋ねると、「1969年、私がイスラエル留学中に父に尋ねたところ、父は、彼らへの憐れみだったと答えた。彼らの厳しい状況を知っており、危険にさらされた人を見て、数人人だけでも通過できればと思ったと述べた。何百人も通過できると思っていなかった。」と語った。

何らかの経験が父親にそうさせたのか?という問いに対しては、千畝さんには若い頃、満州のハルビンにロシア語留学した経験や、その後外務省に就職し、軍隊に入隊した経験があると述べ、「父は、そこで日本兵士の中国人に対する尊大な態度を見て、軍国主義への反抗を抱いたのかもしれない。」と語った。
宗教による影響に関しては、千畝さんは、ハルビンでクリスチャンのロシア人のクラウディアさんと結婚したため、便宜上、教会でクリスチャンとなったが、家族には誰もクリスチャンはいなかったと述べた。

最終的に9月2日にリトアニアを離れたが、すでに多くの人々はビザを受け取っていたため、大勢がビザを求めて駅に押し寄せたというのは、虚偽のエピソードだと明かした。
その後も千畝さんのものではないスタンプで700以上、偽のビザが発行された。赤いスタンプ部分が他の人の名前となっているため、見分けることができるという。

千畝さんは、リトアニアを退去した後、ベルリンを経て、チェコのプラハの総領事館に着任した。そこでも80枚のビザを発給した。ケーニヒスベルクでは諜報活動に近いことを行っていたという。

戦後捕虜収容所を経て、1947年に日本に帰国するも、外務省からは理由を告げられることもなく、辞表を書くよう求められ、解職された。その後、港湾での肉体労働から、電気バブルの販売、NHK等で転職を重ねた。

千畝さんは多くのユダヤ人を救ったとして、1985年にヤド・ヴァシェムより「諸国民の中の正義の人賞」(The Righteous Among the Nations)を授与された。

伸生さんは、父は今でも上から見守っていると思うと述べ、彼は努力して懸命に働くのが好きで、振り返って何かを後悔するような人ではなかった。父は、世界の平和を祈っていると思う。人を憎まず、皆を尊敬すること。国や宗教、人種間に違いはないというメッセージを送るだろうと述べた。

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質疑応答では多くの人が、命の存続に感謝を述べた。5人の子供を設け、今では200人の子孫がいるという男性は、毎日日本の総領事館に出向いていた父親は、ある日「もらった!」と言って帰ってきたという。家族を存続させてくれて感謝していると述べた。20年前は誰も名前を知らなかったが、今ではヒーローだと語った。

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4歳で家族とともに国外へ出た男性は、米国で弁護士資格を取得した。手書きのビザを持参し、お礼を述べた。
また、ある男性は、この話は数十年もすると忘れられる。忘れられないよう、何度も繰り返し語り継いで欲しいと希望を述べた。

現在、ユダヤ遺産博物館では、大規模なホロコースト展「Auschwitz. Not long ago. Not far away」が開催されている。