オッペンハイマーを失脚させた宿敵ルイス・ストローズとは

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米国の原爆開発プロジェクトを成功に導いた物理学者ロバート・オッペンハイマーの半生を描いた映画『オッペンハイマー』では、米国の核政策に多大な影響力を持った宿敵ルイス・ストローズ氏との確執も描かれる。

映画では、オッペンハイマー氏の失脚を画策したことが災いして、切望していたアイゼンハワー政権の閣僚入りを逃すことになる。アカデミックエリートと対照的に、高卒の商人から権力の中枢へとのし上がったストローズ氏を、ロバート・ダウニー・Jr.が好演している。

二十歳でハーバート・フーバーに直談判

ニューヨークタイムズによると、ストローズ氏は、1896年にバージニア州チャールストンの靴商の家に生まれた。高校卒業後は靴の行商人となった。本人の回想によれば、20歳になった時、大学進学よりも当時食品局のトップを務めていたハーバート・フーバー氏(第31代大統領)のもとで働きたい願望が勝り、首都ワシントンにあるホテルで本人を出待ちして、直談判した。突然現れた青年に、フーバー氏は当惑した笑みを浮かべつつ、「いつから働きたいか」と尋ねたという。「いますぐです」と答えると「コートを脱ぎたまえ」と言ってその場を去っていった。ストローズ氏は最終的にフーバー氏の助手、腹心にまで上りつめた。

その後、ウォール街で財を築き、さらに海軍兵器省に入省した。1946年にトルーマン大統領によって、原子力委員会(AEC)の最初のメンバーに就任するが、AECの諮問委員会の委員長で、当時科学者らの尊敬を一身に集めていたオッペンハイマー氏との対立が浮き彫りになる。

オッペンハイマーと対立

熱核兵器の即時開発と「密閉された安全保障」を唱えるストローズ氏に対して、オッペンハイマー氏は水爆の開発に異を唱え、国際的な軍備管理を提唱していた。

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ストローズ氏は1953年にアイゼンハワー大統領によってAECの委員長に任命されるが、原子力に関する大統領の特別顧問ともなり、絶大な権力を握る。全省庁の原子力の取り組みの全てはストローズ氏の承認が必要とされ、膨大な最高機密情報を抱えていたという。

かつて共産主義者と関係のあったオッペンハイマー氏は、1954年に行われたAECの審問の末、最高機密情報にアクセスする資格を奪われ、政府の仕事から追放されることになる。科学者の間では、水爆に反対したオッペンハイマー氏に対するストローズ氏の個人的な復讐と考えられていたという。映画では、ストローズ氏が策謀をめぐらす場面に時間が割かれている。

入閣の望みかなわず

1959年、アイゼンハワー大統領は商務長官代理の座にあったストローズ氏を正式に長官に指名し、上院商業委員会による指名承認公聴会が開かれた。公聴会は16日間という異例の長さに及んだ。委員会は9-8でなんとか任命を認めたものの、最終的に本会議で却下された。

ニューヨークタイムズは当時、ストローズ氏の承認をめぐる障壁として「時に自分を守るために事実を故意に避ける習慣、歪曲、誤表示、事実を偽ること」や「敵対的な反応を含むパーソナリティ」といった性質の問題、多数党の民主党議員に影響力のあったクリントン・アンダーソン議員との数年に及ぶ確執などを挙げている。

原子力合同委員会の委員長だったアンダーソン議員は公聴会で「ストローズ氏は、原子力に関連する重要な秘密を意図的に議会から隠蔽し、法を犯した」と証言したという。

結局、49-46で商務長官への道は閉ざされた。当時、閣僚の指名が却下されたのは1925年以来で、アイゼンハワー大統領は、アンドリュー・ジョンソン大統領の弾劾裁判に次ぐ「上院史上2番目に恥ずべき日」と非難したという。

引退後は慈善事業、アメリカユダヤ人委員会、ユダヤ神学校に関連する取り組みに多くの時間を費やした。広範囲に旅行し、自分の農場で余暇を過ごすなどしていたという。がんを患い、1974年1月にバージニア州の自宅で息を引き取った。亡くなった当時、フーバー氏に関する本の執筆を進めていたという。

今年のアカデミー賞で映画『オッペンハイマー』は、作品賞や監督賞など最多13部門にノミネートを果たしている。授賞式は3月10日。