「先人の尽力忘れない」本土復帰から70年、奄美出身者ら ニューヨークでのパフォーマンスに込められた想いとは

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去る5月13日に行われたジャパンパレードは、2,500人がセントラルパーク・ウェストを練り歩き、沿道や周辺には推計5万人もの観客を集め盛大な結果となった。参加全団体数は98。歌や演舞やコスプレなど思い思いのパフォーマンスが繰り広げられる中、ひときわ沿道の関心を集めたのが「ニューヨーク奄美会」の行進だ。

鹿児島県奄美群島出身のメンバーを中心に地元や大阪の奄美人らが加わった同グループは蛇皮線と島唄(奄美地方独特の民謡)をバックに、底抜けに明るい舞踊を披露。見物客も巻き込むパワフルなプレゼンテーションは大きな喝采を浴びた。

同団体は2021年のコロナ禍真只中に、マンハッタン在住の栄 秀吉氏(不動産業)の呼びかけで発足。世界中の奄美出身者とのネットワークを構築しながら、今回、念願のジャパン・パレード初参加を果たした。

パレードの前夜に市内のギャラリーで開かれた壮行会には100名を超えるニューヨーカーたちが殺到。日本から駆けつけた栄百々代さん、成瀬茉倫さんらの情緒あふれる島唄に酔いしれたり、関西奄美会山口久義会長の繰り出す豪快な奄美太鼓(チヂン)のリズムで奄美独特の踊り唄を一緒に舞うなど熱い交流が行われた。

(左)栄百々代さん (右)成瀬真倫さん ©Hideo Nakamura
大阪から駆けつけた関西奄美会の山口会長(写真右)©Hideo Nakamura

奄美群島は鹿児島と沖縄のほぼ中間の北緯28度に位置し、奄美大島から加計呂麻島、与路島、請島、喜界島、徳之島、沖永良部島、与論島までの8つの有人島を指す。総人口は約12万人、総面積は約1,231平方キロメートルに及び、すべて鹿児島県に属する。

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ところが、太平洋戦争時に日本軍の要塞があった同群島は、戦後は沖縄同様、米国の領土となり米軍が進駐。日本円ではなくドルが通貨として流通していた。群島民98%による嘆願署名や断食運動など市民の切実な訴えで奄美が日本に返還されたのは1953年12月25日のこと。ちょうど今年が「返還70周年」の節目に当たる。

「(米軍政下におかれたのは」5歳の時でした。実家が米軍に接収され、軍人たちが母屋に住み自分たちは肩身の狭い生活を強いられました。日本本土との流通が分断されたせいで物資が乏しく、両親たちの苦労は並々ならぬものだったと思います」と語るのはパレード参加者の一人久野末勝さん(78)(奄美大島・龍郷町)。62歳の定年後に始めたチヂンの腕前も披露した。「でも、米軍に関してそんな悪いことはありませんでした。軍人たちもおとなしかった」と振り返る久野さん。東シナ海を挟んで中国と向き合う奄美に住む人だけに、パレードに参加して日米関係の奥深さを改めて痛感したと言う。

「こんなこと言っていいのかわからないけど、憲法9条では国は守れませんよ。中国は万里の長城を作ったような大国です。時間をかけてアメリカも日本も侵略しているのです。日本はその中国にピストルひとつなく丸腰で向かっているのが現状です。アメリカの核の傘の下に入っていないと生きていけない。これはもうどうしようもないですね」

前出の関西奄美会山口会長は「ニューヨークの人々の心の暖かさに感動した。雰囲気も最高でしたね。パレード中に沿道のアメリカの老婦人が『その島唄知っている』と声かけてきたのには驚きました。お父さんが軍人で名瀬(奄美大島の中心都市)に駐留していたそうです」。

山口さんは、復帰の日に日本の旗を振りながら裸足で村内を駆け回りまわった。70年の月日を経て、その同じ足がニューヨークの大通りを踏みしめた。「復帰に尽力した先人たちの熱い思いは忘れてはいけません」と唇を噛み締める。

(中村英雄)