ウェイン・ショーター氏が生前に語ったジャズの「意味」とは

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半世紀以上にわたる活動で、ジャズに変革をもたらし続けたジャズ・ジャイアント、ウェイン・ショーター氏が2日、ロサンゼルスの病院で亡くなった。89歳だった。

死因については明らかにされていない。

代理人のアリッシイ・キングスリー氏は「先見性のある作曲家で、サックス奏者、ビジュアルアーティスト、経験な仏教徒、献身的な夫で父親、祖父のウェイン・ショーターが、彼の素晴らしい人生の一部としての新たな旅に踏み出した。新たな挑戦と豊かな創造の可能性を求め、われわれの知る地球から旅立った」と声明を発表した。

1933年にニュージャージー州ニューアークで生まれたショーター氏は、1959年にデビュー。アート・ブレイキー・ジャズメッセンジャーズやマイルス・デイビス・クインテットに加わり、テナー・サックス奏者、作曲家として活躍。ポストバップのジャズの行方に大きな影響を与えた。70年代には故ジョー・ザヴィヌルらとフュージョンバンド、ウェザー・リポートを結成。ジョニ・ミッチェルとの10枚を超えるアルバムの共演、カルロス・サンタナやスティーリー・ダンなど幅広いコラボレーションでも知られる。

生涯で作曲した楽曲は200曲を超えるとされる。「スピーク・ノー・イーヴル」「ブラックナイル」「フットプリンツ」「ネフェルティティ」「E.S.P.」といったモダン・ジャズのスタンダードとなった曲も多く、生涯を通じて音楽の可能性を広げ、プレイヤーにインスピレーションを与え続けた。

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マイルスバンド時代から活動を共にし、宗教上の共通点もあるピアニストのハービー・ハンコック氏は2日に発表した声明で、「サックス奏者、作曲家、オーケストレーターとして、最近では傑作オペラ”…Iphigenia”の作曲家として、卓越した頂点に到達することができた。 そばにいて特別なウェインイズムを感じることができないのは寂しいが、心の中には彼の精神をいつも持ち続ける」と発表。友人との別れを惜しんだ。

「子供の頃の夢を捨ててはいけない」

ニューヨークタイムズによると、ニューアークの工業地帯で育ったショーター氏は、幼い頃から兄とともに、コミックやSF、ラジオ、映画鑑賞に夢中になり、高校は、ビジュアルアートやパフォーミングアートを専門とする、当時公立校としてはじめてのニューアーク芸術学校に進学した。学校では音楽理論や作曲に興味を持つようになり、ハドソン川の向こう側で深夜繰り広げられるビバップシーンに魅了されていった。ニューアークはサヴォイ・レコードの拠点で、地元のラジオ局はバードランドなどマンハッタンののジャズクラブからライブを流していた。

その後トランペッターの兄と地元のビバップグループに参加。実験精神はこの頃から変わらず「わざとしわくちゃのスーツやゴム靴を着用し、楽譜の代わりに新聞をスタンドに立てる」といった突拍子のない行動をとり、同級生だった詩人のアミリ・バラカは後に、地元で「ウェインのように奇妙な」という言葉が生まれたと振り返っている。

1950年代はニューヨーク大学で音楽教育の学位を取りながらジャズシーンで活動。2年間の陸軍勤務を経て、再びジャズの舞台に戻り、ブレイキー率いるハードバップバンド、ジャズ・メッセンジャーに加わり、長く輝かしいキャリアをスタートさせた。

ショーター氏は生前、音楽の魅力について、「速度とミステリー」があるから惹かれるとしばしば口にしていたという。

コミックとSF好きは生涯変わらず、棚にアクションフィギュアを所狭しと並べ、スーパーマンの「S」のロゴが入ったTシャツを着ていたこともあった。

2021年に「子供の頃の夢を捨ててはいけない。それを守れるだけの強さが必要だ」と話したことがあったという。生涯を通じて伝統にとらわれることを拒み、「私にとってジャズの言葉の意味は、”やってみな”ほどの意味しかない」と話すのが好きだったという。

abcニュースによると、ショーター氏はバンドリーダーとして25枚を超えるアルバムをリリースし、グラミー賞を12回受賞した。2015年にグラミー賞の特別功労賞生涯業績賞を受け、先月の第65回グラミー賞授賞式では、2022年のライブアルバムに収録された「Endangered Species」で、ピアニストのレオ・ジェノヴェーゼとともに最優秀即興ジャズソロ賞を受賞した。