黒人初のNY市長、デービッド・ディンキンズ氏 93歳で死去

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ニューヨーク市で初めて、また唯一黒人として市長を務めたデービッド・ディンキンズ(David Dinkins)氏が23日夜、マンハッタンの自宅で死去した。93歳だった。
ニューヨーク市警察は、ディンキンズ宅から、呼吸困難に陥り意識がないと通報を受けたとCNNに明らかにした。

ディンキンズ氏は、1990年から1993年までニューヨークの市長を務め、経済格差の是正や有色人種の教育水準の向上、医療施設の拡充などに取り組み、前任のエド・コッチ(Ed Koch)元市長時代に悪化していた人種間の融和を推進した。
一方で、犯罪増加や国家的な不況、1990年代初期に起きたユダヤ教徒と黒人の衝突などで、難しい舵取りを迫られた。再選を目指した選挙で、共和党候補のジュリアーニ氏と接戦の末、敗北した

ジュリアーニ氏は訃報を受け「素晴らしい街に人生の大半を捧げた。彼の行いは全ての人から尊敬され、慕われている」と述べ、「市長の家族と、彼を愛し支援したニューヨーカーに深い哀悼の意を捧げる」とツイートした。

現職のデブラシオ市長はツイッターで「デービッド・ディンキンズは、ただより良い道筋を描いてくれた」と述べた。「彼は私の師であり友人でもあった。”ゴージャスなモザイク”のために戦う確固たるコミットメントは、私に刺激を与えてくれる。我々はこの戦いを続ける」と追悼した
ディンキンズ氏は生前、ニューヨークの持つ人種や民族、宗教の多様性について、「ゴージャスなモザイク」と表現していた。
なお、デブラシオ氏は、ディンキンズ政権で働いていた際、妻のシャーリーン・マクレイ(Chirlane McCray)氏に出会った。

クオモ州知事も「ニューヨークは類い稀な市民のリーダーを失った」「ニューヨーク市初の、そして唯一の黒人市長。彼は”ゴージャスなモザイク”を大切にし、結束への希望と深い優しさをもって、何十年もの間、市や州に尽くしてきた」とメッセージを寄せた

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ディンキンズ氏の妻、ジョイス・ディンキンズ(Joyce Dinkins)氏は先月11日、89歳で亡くなった。

ハーレムで政治的影響力

ディンキンズ氏は1927年、ニュージャージー州トレントン(Trenton)で生まれ、その後ハーレムに引っ越した。高校卒業後はアメリカ海兵隊に入隊し、黒人として初めてモンフォードポイント海兵隊に仕えた。これにより2012年に議会名誉黄金勲章を受賞した。除隊後は、ハワード大学で数学の理学士号を、ブルックリン・ロースクールで法学位を取得した。

ディンキンズ氏は1960年代から70年代、チャールズ・ランゲル(Charles Rangel)下院議員、公民権弁護士のパーシー・サットン(Percy Sutton)氏、ニューヨーク州初の黒人州務長官であるバジル・パターソン(Basil Paterson)氏と共に「ギャング・オブ・フォー」(Gang of Four)と呼ばれ、黒人指導者としてハーレムで政治的な影響力を高めた。

1966年にニューヨーク州議会下院議員に当選し、政界に進出。ニューヨーク市の選挙管理委員長などを経て、1985年にマンハッタン区長に選ばれた後、1990年に第106代ニューヨーク市長に黒人として初めて就任した。

在任中は、ホームレス対策として市場価格よりも安く入居できる住宅「アフォーダブル・ハウジング」の拡大や、エイズ撲滅計画の推進、治安の改善などに積極的に取り組んだ。

ニューヨークは1990年、年間の殺人件数が2200を超えていた。治安対策として「Safe Streets, Safe City」プログラムを導入し、ニューヨーク市警察の組織を拡大した。その結果、殺人件数は13%減少し、その後も、犯罪率は減少し続けている。
ジュリアーニ氏が、就任後に治安を改善させたと主張していることに対し、ディンキンズ氏は自身の在職中に警察官を増員したからだとニューヨークタイムズに語っている。

テニス愛好家のディンキンズ氏は、全米テニス協会と99年のリース契約を締結し、ニューヨークに全米オープンテニスを招致し、経済活動を後押しした。

また薬物使用者やホームレス、ポルノ劇場で溢れた街というイメージを一掃するため、コッチ政権下で始まったタイムズスクエアの再開発計画を引き継いだ。

1991年8月に、ブルックリンのクラウンハイツ地区で、超正統派ユダヤ教徒のラビが乗車した車が、黒人の少年をはねて死亡させた事故が発生。その数時間後、ユダヤ系の学生が黒人の集団に殺害される事件が起きた。これをきっかけにユダヤ人と黒人の間で対立が起き、大規模な略奪や暴動に発展した。ディンキンズ氏の対応が遅れたとして、強い非難を浴びた。
ジュリアーニ氏は、この暴動を「ポグラム」(ユダヤ人への迫害行為)と呼び、ディンキンズ氏を攻撃した。ディンキンズ氏は後に、この暴動は市長時代で最も過酷な体験だったと語っている。

ディンキンズ氏は、2013年の回顧録「A Mayor’s Life: Governing New York’s Gorgeous Mosaic」の中で、市長選で敗北した理由について「当時は大きな声で言えなかったが、今なら”人種差別主義、単純明快だ”と回答する」と綴っている。

市長退任後は、コロンビア大学国際公共政策大学院(SIPA)の教授として教鞭をとった。米テニス協会やこども保健基金の役員を務めた。