中国偵察気球撃ち落としたF-22戦闘機 コールサインは伝説のパイロット

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国防総省は4日、米国本土の上空を飛行していた中国の偵察気球について、戦闘機による撃墜に成功したと発表した。

同省が最初に気球の存在を明らかにしたのは2日で、北米航空宇宙防衛司令部(NORAD)を含む政府機関が追跡、監視にあたっているとしていた。

飛行地点についての言及はなかったが、米報道各社によって、モンタナ州ビリングス上空で発見されたと報じられ、飛行する様子もSNSに出回った。

4日の発表によると、気球の飛行経路は、28日にアリューシャン列島付近から米国に侵入し、アラスカからカナダに抜け、アイダホ上空から再び米国の領空に入っていた。

この日、バージニア州にあるラングレー空軍基地の第1戦闘航空団に属する戦闘機F-22ラプターが出動。高度5万8,000フィートから、6万~6万5,000フィートの高さにある気球にAIM-9X「サイドワインダーミサイル」1発を発射した。気球は東側海岸の沖合10キロメートルの地点に落下したという。

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中国政府は、気象観測気球が誤って飛んだものとしているが、米当局者は偵察気球であり、意図的に送られ、機密軍事施設の監視を試みたと非難している。

ラングレーから出動したのはコールサイン「FRANK01」 と「 FRANK02」の2機で、名称は第1次世界大戦で活躍し、航空史にその名を刻むエースパイロット、フランク・ルーク・ジュニアに因んだものだと報じられている。

フランク・ルークとは

Air & Space Forces Magazine」によると、ルーク氏は1918年夏にフランスでドイツ軍と戦い、9月12日から29日に死亡するまでのわずか2週間半の間にドイツ軍の気球14機と戦闘機4機を撃墜することに成功した。死後、航空兵として初めて名誉勲章を授与された。

アリゾナ州フェニックス出身のルーク氏(当時21歳)が、西部戦線で米国の第1追撃グループに加わったのは1918年7月25日で、同グループを構成する4つの航空隊の一つである第27航空隊に配属された。

空中戦で初勝利を収めたのは9月12日で、ドイツの観測気球の破壊に成功した。2日後に気球2機を撃ち落とし、その翌日には3機を撃墜。6機に勝利し、4日間ですでにエースパイロットとなった。最大の活躍は18日で、10分足らずで5機を片付けたという。

第一次世界大戦では、敵の塹壕に対する砲撃の修正をするために双方が観測気球を飛ばしており、ドイツ軍は、ドラッヘンと呼ばれるソーセージ型の気球を使用していた。

ドラッヘンは対空砲や機関銃、歩兵による小銃で強力に保護されており、気球への攻撃は、飛行機や地上の目標物を攻撃するよりも危険かつ困難な任務と考えられていた。水素が充填されているものの、破壊は容易でなくパイロットは何度も攻撃をしなければならなかったという。

27航空隊では、夕暮れ時や夜間に戦闘機2機を飛ばし、攻撃するのがお決まりの戦術だったという。

ルーク氏の活躍は当時、ニューヨークタイムズの一面を飾るなど本国でも大きく報じられた。一方、ルーク氏は、好きなときに離着陸し、現場を離れたり、無断欠勤することもしばしばで、エース中のエースという地位を鼻にかけていたという。

数日間の休暇を得たのち、25日に飛行計画も提出せずに一人で気球ハントにでかけ、さらに28日にも複数機を撃墜し勝利を伸ばした。29日、3機を撃墜したことが目撃された後、行方不明となり二度と基地に戻ることはなかった。

休戦協定から9日後の11月20日、第1追撃グループの司令官は、帰らぬ人となったルーク氏に名誉勲章を推薦した。

死の状況は謎に包まれている。翌年の1月に遺骨が発見されたが、当初作成された報告書には、現地の住民の話をもとに、ルーク氏は上空からの機銃掃射でドイツ兵11人を殺害した後に撃ち落とされ、その後、地上で最後まで戦ったと記されていた。ただし報告書はフランス語を話せない兵士が作成し、住民らも内容を確認せずに署名していたことが判明しているという。一方、現地を訪れた米国人将校は、聞き取りの末、ルーク氏が拳銃2丁を使いドイツ兵7人を殺害したとも報告しているという。

1919年5月、出身地フェニックスに暮らすルーク氏の父に名誉勲章が贈呈された。